カンボジアの歴史

現在、急成長を遂げているカンボジア。首都プノンペンでは高層ビルの建設ラッシュが起きている一方で、街なかには古い寺院が数多く見られ、人々は昔からの伝統を守って生活している。アンコールワットに代表される遺跡群を持つカンボジアがどのような歴史を辿ってきたのか見ていこう。カンボジアの歴史は、先史期、プレ・アンコール期、アンコール期、ポスト・アンコール期、フランス植民地期、植民地期以降の6つの時代区分に分けることができる。

(現代のカンボジア地図)

 

先史時代

カンボジアの歴史の始まりは紀元前3000年代初頭に遡ると言われている。コンポン・チナン州にあるサムロン・セン貝塚の調査によると、人々は狩猟採集や浮稲作などを営んでいたようである。また、カンボジア東部に分布する環状土塁遺跡群からは、紀元前2000年紀の土器や石斧が発掘された。

 

プレ・アンコール期

プレ・アンコール期では、扶南(ふなん)と真臘(しんろう)という2つの古代国家が知られている。扶南はメコン川下流域を1世紀から7世紀前半にかけて支配した古代国家で、多くのインド文化を吸収し海上貿易によって栄えた。現在のベトナム南部にあるオケオ遺跡からは、レンガ製の宗教建築物や、仏像、ヒンドゥー教の神像、ローマ帝国の金貨などが出土している。7世紀に入ると、マラッカ海峡経由の南海交易ルートが主流となったため扶南の勢力は凋落した。一方で、扶南の属国であった真臘が7世紀初頭に独立、扶南を吸収した。コンポン・トム州のサンボー・プレイ・クック遺跡は真臘時代を代表する遺跡である。この真臘は、8世紀ごろに交易ネットワークの違いから、水真臘と陸真臘に分かれた。

 

アンコール期

二分した真臘をまとめたのがアンコール朝である。アンコール期の開始や王の出自については諸説あるが、802年にジャヤヴァルマン2世(在位802-834)が自らを「世界の王」であると宣言したのが始まりだとされている。スールヤヴァルマン2世(在位1113-1150頃)の治世の時に、ヒンドゥー教の寺院であるアンコールワットが建設された。スールヤヴァルマン2世は遠征と進出を積極的に繰り返し、東北タイ、カンボジア西北平原、チャオプラヤ川流域、メコン川下流域まで支配地域を広げた。王の没後、各勢力の争いの中で、ベトナム中部のチャンパー王国に首都を一時占領されるが、ジャヤヴァルマン7世(在位1181-1220頃)が壮絶な戦いの末奪還した。王は大乗仏教に帰依し多くの仏教寺院を建立した。しかし、これらの多くは後にヒンドゥー教を信奉する王が即位した時に破壊された。その後、タイ人のアユタヤ朝との戦いによって国力は疲弊し、14世紀中頃に王都アンコールが陥落した。

 (夕日が沈むアンコールワット)

 

ポスト・アンコール期

 アンコール陥落後、カンボジアではタイ、ラオス、マレー、ベトナムなどに加え欧州列強や華人勢力の介入が続き、王家の内紛も繰り返された。17世紀後半からは、東西に分裂し、それぞれベトナムとタイの二大勢力の支援を受けていた。17世紀は「交易の時代」と呼ばれ、日本人町などの外国人居留地ができ商業が栄えたが、再び長い内乱が続くこととなった。19世紀、タイとベトナムの対立の中でアン・ドゥオン王(アンは称号の一部)を即位させる講和が結ばれた。王は州の編成や裁判制度の整備などに努め、また上座仏教を保護し寺院の建立や仏教の教えに沿った行いを奨励した。

(王宮内にあるアン・ドゥオン王の仏塔)

 

フランス植民地期

 16世紀に西欧人がカンボジアに進出しはじめ、17世紀半ばからはフランスがインドシナ半島の支配を目論むようになった。これは、メコン川を利用して巨大な中国市場を手に入れるのが目的であった。1863年と1884年の2度に渡る条約締結によってカンボジアはフランスの植民地となり、1887年にフランスはフランス領インドシナ連邦を作って、カンボジアはその一部とされた。第二次大戦中、ドイツに敗北したフランスでは親独政権のヴィシー政権が成立し、インドシナを統治した。さらに、この政権との協定のもとで日本軍がインドシナに進駐した。ヴィシー政権の崩壊後は日本の監督下でカンボジアは独立を果たしたが、戦後独立は取り消されフランスの支配が再開した。1953年、当時王位に就いていたノロドム・シハヌークは世界各国を巡り世界世論に訴えかけ、ついに完全独立を勝ち取った。

(プノンペンにある独立記念塔。1953年建設)

 

独立~内戦まで

完全独立後、シハヌークは王位を父に譲り、自身は右派と左派の諸党を統合した政治団体の総裁として中立政策をとり、米ソ対立の中で両陣営から支援を引き出して近代化を進めた。また同時期にサロト・サル(のちのポル・ポト)らの共産主義者が活動を始めていた。「クメール・ルージュ(赤いクメール)」と呼ばれた彼らは、長く続くシハヌークの独裁政治による縁故主義や汚職といった弊害に反対し、地方の解放区で活動を展開した。1970年、シハヌークの外遊中にロン・ノル将軍がクーデターを起こし、親米の「クメール共和国」が誕生した。その背後には、ベトナム戦争で南ベトナム解放戦線のカンボジア国内通過を認めていたシハヌークを排除したいというアメリカの意図があった。シハヌークは北京で「カンボジア民族統一戦線」を結成して反ロン・ノルを掲げ、同時にクメール・ルージュとの共闘を宣言。1975年4月17日にプノンペンに入城したクメール・ルージュ軍は、同日中にプノンペン市民に強制退去を命じた。そして、クメール・ルージュの最高幹部であったポル・ポトは、新国家の「民主カンボジア」を誕生させた。極端な共産主義政策が行われ、それまでの文化、社会、宗教、家族などは全て否定、破壊された。また、組織の幹部や多くの罪なき人が政治犯として尋問、殺害、粛清された。非現実的な農業計画による貧困などと合わせて、この時期に亡くなった人は100万から200万人(当時の人口は推定700万から800万人)と言われている。1979年にベトナム軍の支援を受けたヘン・サムリンら元東部管区幹部がプノンペンを奪取して「カンボジア人民共和国」という新政権を樹立し、ポル・ポトらはタイ国境へ敗走。ヘン・サムリン政権はベトナムの傀儡政権とみなされ、国連はソン・サン派(クメール共和国の流れを汲む)、ポル・ポト派、シハヌーク派の3派連合をカンボジアの主席としていた。そのためカンボジアの復興は遅れ、政府軍と3派グループとの間で激しい戦闘が続き、国境付近の難民が国際問題となった。

(「S21」と呼ばれた政治犯尋問センター。現トゥールスレン虐殺博物館)

 

内戦終結~現代

1989年、冷戦終結に伴いベトナム軍は完全撤退し、カンボジアは国名を「カンボジア王国」として再出発を果たし、1991年には全当事者4派と各国の代表によってカンボジア和平協定(通称パリ協定)が調印された。その後、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による準備のもと1993年に総選挙が行われ、ノロドム・ラナリットとフン・センの2人制首相制の連立内閣が成立し、シハヌークが再び即位した。1998年の総選挙で、第2次フン・セン内閣が成立し、またポル・ポトの死亡によりクメール・ルージュが解体された。不安要素だった共産主義勢力が力をなくしたことにより、政権も安定した雰囲気を見せるようになった。2004年にシハヌーク国王が退位し、シハモニ国王が即位。2003年の第3回総選挙、2008年の第4回総選挙でもカンボジア人民党が勝利しフン・セン内閣が続いている。